知多半島は、愛知県西部、名古屋市の南に突き出した半島です。西は伊勢湾、東は知多湾・知多湾・三河湾で、南は伊良湖水道を通じた太平洋です。
知多半島での「ものづくり」の歴史は古代にさかのぼり、知多半島で作られた塩は古代の都であった平城京や平安京へ運ばれていたことが知られています。
12世紀初頭には常滑焼の生産が始り、。常滑焼は瀬戸焼・信楽焼・備前焼などと並び、中世に栄えた六古窯の一つに数えられています。
常滑焼の古い窯は2から3000基にのぼると推定され、古くは知多半島全域で焼物が作られていて、燃料となる雑木類は刈り尽くされたともいわれます。
江戸時代は経済発展がめざましかった時代で、特に、18世紀半ば以降は、日本各地で特産品が生まれます。知多半島も例外ではなく、木綿は三河・伊勢とともに一大産地を形成していました。酒も、江戸などの上方の酒どころとの間で造られた酒という意味で「中国酒」と呼ばれ、江戸では上方の酒に次ぐシェアを占めていました。中埜又左衛門(なかのまたざえもん)が造り始めた酢は、にぎりずしの流行にのって人気を博しました。
その中埜又左衛門が造った酢は、米とは違い酒粕を原料とするところに特色があり、酒造りが盛んだった半田や亀崎では、酒と同時に大量の酒粕が生み出され、その酒粕から酢を造ることによって、酒・酢の醸造はまったく無駄がでない産業になりました。酒造りの過程で出てくる糠は肥料に、酒粕は酢の原料や肥料に、酢を絞って残る酢粕も肥料に、とすべての廃棄物が再利用されるようになりました。
また、明治にはいると、新しい製品も作り出されます。その一つがビールであり、明治10年代後半から試行錯誤が繰り返され、本場ドイツの技術・機械を導入した半田の丸三麦酒株式会社の「カブトビール」が20世紀初頭には全国5位のシェアを占めるようになります。まだビールが高級な飲み物だった時代です。同じころ荒尾村で生産され始めたのがトマトケチャップです。トマトケチャップは日本風にアレンジされた洋食の普及とともに、生産量を増やしていきました。ビールといい、ケチャップといい、日本人の生活が西洋化するなかで、新たな需要を見込んでの新商品への挑戦でした。
ただ、ビールもトマトケチャップも「逆境」から生まれた新商品で、ビールは低迷する知多酒造業の打開策の一つとして着目されたものです。ケチャップも、売れ残ったトマトの処分に困り、西欧にならって調理用ソースとして加工したのが始まりです。
これら知多半島で生産されたものは、いずれも知多半島や東海地域だけで消費されるものではありません。江戸遺跡から多くの常滑焼の製品が見つかっているからです。木綿や酒、酢の主な市場は、当時世界最大の都市であった江戸でした。
知多半島で作られた製品を江戸へ運ぶのに重要だったものは船であり、江戸時代においては船が物資輸送の手段でした。知多半島は海に囲まれた半島だけに、古くから伊勢湾内やその周辺への船の往来が活発で、それらの船はしだいに大型化して、上方・瀬戸内方面や江戸方面へ遠距離航海を行うようになりました。廻船は知多半島産の製品を運ぶと同時に、原材料やその他の必要な物資をもたらし、廻船と知多半島の産業は密接な関係にありました。18世紀後半には知多半島は廻船の一大拠点として知られるようになり、その後の約1世紀にわたって知多半島の廻船は、日本全国の物流のなかでも大きな役割を果たすようになります。
また、産業が栄えた背景としてもう一つ考えられるのは、知多半島の持つ技術力です。知多半島には桶屋・樽屋をはじめ、船大工や鋳物師・鍛冶屋、黒鍬(土木技術者)などが数多く存在していたことが知られています。これらの人々がものづくりに必要な設備や道具の供給を支えていたのです。
古代以来の歴史を持ち、19世紀に大きく花開いた知多半島の産業ですが、近年では、酒造業や織布業のように、廃業してしまうケースも少なくありません。しかし、未だに現役でがんばっている企業もあれば、産業で栄えていた時代を思い起こさせるものも数多く残っています。単に自然だけではなく、そうした歴史を感じさせるところが知多半島の特徴であり魅力であるといえるのではないでしょうか。